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白馬非馬

及川あまき

Seibun Satow

Feb. 28. 2003

 

「私の作品はArt of Beingではなく、Art of Becomingを目指している」。

ジャクソン・ポロック

 

 及川あまきはローカルな一俳人にすぎない。あまき(本名栄蔵)は、一八八五年(明治一八年)九月一日、岩手県北上市に生まれ、一九七六年十二月一六日、同地で、老衰により亡くなっている。北上市の展勝地陣ケ丘に、「秋雨や心決して蓑を着る」、さらに、大堤公園には「仰ぎ見る功に冬日暖かし」と「造林の功かぐわし冬ぬくく」というあまきの句碑があるものの、文学史から顧みられることはほとんどない。その地域でのみ語り継がれている彼のような俳人は、日本各地に数多くいるだろう。

 あまきは、あまりに時代の先を見ていたために、不当に評価され続けている俳人ではない。彼に対する評価は等身大である。決して大きすぎも、小さすぎもしない。将来、あまきが今受けている以上の評価を与えられる可能性はおそらくない。また、彼も、それを望んではいないだろう。それどころか、句碑を建ててもらったことさえ、もったいないことだと恐縮しているに違いない。

 あまき唯一の著作は近藤書店から夏草叢書として刊行された『白馬』(一九五九)であるが、それに収められている句を読む限り、あまきの俳人としての能力は師匠である山口青邨には及ばない。彼は、一九三〇年、『夏草』創刊以来、山口青邨に師事し、後に、『夏草』の発行にかかわり、発行所も自宅で受け持っている。また、一九七三年の第十九回角川俳句賞を受賞した山崎和賀流は、一九五七年、あまきが指導する「きたかみ俳句会」に入会しているけれども、三五歳で急逝した和賀流の句のほうが文学的可能性に満ちている。全体として、あまきの句は彼がローカルで、マイナーな俳人と評価されてもやむをえないことを明らかにしている。

 一九三三年十一月第一回の東丁賞を受賞しているものの、あまきは、むしろ、俳句の指導者として活躍している。ただし、和賀流は例外的であり、あまきは偉大な俳人を発掘すると言うよりも、俳句の草の根を増やす役割に徹している。小渕恵三内閣の文部大臣だった有馬朗人も指導を受けた一人である。一九五三年、夏草同人となり、翌年、きたかみ俳句会を結成している。一九五六年には、句誌『きたかみ』を主催し、一九七〇年一四〇号で休刊するまで続く。この年から、毎月、東京と北上を往復する生活を始めている。彼は、生け花教室やピアノ教室の先生のように、俳句を地域の愛好家に指導している。

 しかしながら、そういった俳人が地域文化を体現している。あまきは、一九〇三年、盛岡中学を卒業しているが、中学の同級生に石川啄木がいる。後に、啄木に頼まれて金を貸したものの、他の友人たち同様、返ってくることはなかったし、そもそもそれを期待してもいない。「啄木と語りし窓や春灯」や「啄木の歌なつかしや枯木寺」、「啄木忌草に腹這ひ何か読む」と詠むあまきは啄木という花の脇に生い茂る草のようだ。文化は花として咲き乱れると言うよりも、草としてたくましく繁殖するものだということをあまきは再認識させる。「雑草は未開の広大な空地の間にしか存在しない。雑草が空隙を埋める。雑草は他のものの間に──隙間に生える。花は美しく、キャベツは有用で、けしの実は錯乱させる。だが、雑草ははびこる、それが教訓だ」(ヘンリー・ミラー『ハムレット』)。

 

Sooner or later, love is gonna get ya

Sooner or later, girl, you've got to give in

Sooner or later, love is gonna let ya

Sooner or later, love is gonna win

 

Its just a matter of time

Before you make up your mind

To give all that love that you've been hiding

Its just a question of when

I've told you time and again

I'll get all the love you've been denying

 

Sooner or later, love is gonna get ya

Sooner or later, girl, you've got to give in

Sooner or later, love is gonna let ya

Sooner or later, love is gonna win

 

You say you'll never be mine

But darling, they'll come a time

I'll taste all that love that you've been hiding

Its just a question of time

Before you make up your mind

And give all that love you've been denying

 

You've been looking for love

In all the wrong places

You've been looking for love

All the wrong faces

Gotta get ya girl

On this illusion

Gonna save your heart

From all this confusion

 

Sooner or later, love is gonna get ya

Sooner or later, girl, you've got to give in

Sooner or later, love is gonna let ya

Sooner or later, love is gonna win

Love is gonna win

 

Its just a matter of time

Before you make up your mind

And give all the love that you've been hiding

Its just a question of when

Told you time and again

I'll get all the love you've been denying

 

Sooner or later, love is gonna get ya

Sooner or later, girl, you've got to give in

Sooner or later, love is gonna let ya

Sooner or later, love is gonna win

Sooner or later, love is gonna get ya

Sooner or later, girl, you've got to give in

(The Grass Roots “Sooner Or Later”)

 

 あまきは句集に『白馬』と名づけている。「白馬」と聞くと、『ローン・レンジャー』の「シルバー」を思い起こす世代もいるだろうが、英語で、「白馬の騎士(White Knight)」は乗っ取り攻勢を受けた企業を救うために友好的な買収を申し出る会社を意味している。白馬にまたがった騎士が危機に陥ったプリンセスを救う中世騎士物語に由来する。白馬にはこうした高貴な正義をイメージさせる。

 けれども、中国の諸子百家の一つである名家の公孫竜は「白馬非馬」と言っている。「馬は形の名としてつけられ、白馬の白は毛色の名としてつけられたもので、馬と白馬とは別の内容を持つ観念であるから、白馬と馬は別物である」。彼は、同様の論理に基づいて、他にも、「堅白同異」を唱えている。「堅く白い石は二であって一ではない。なぜなら、目で見たときは白いことは分かるが堅いことは分からない。手で触れたときは堅いことが分かるだけで色のことは分からない。ゆえに堅と白とは二であって、同一のものではない」。本来の意味とは違うけれども、戦前の帝国陸軍では、確かに、白馬は馬ではない。馬の育成は、当時、優秀な軍馬を生産することを意味したが、白馬は戦場では目立ちすぎるため、軍馬には適していないと見なされている。

 明治政府は軍備の近代化を進め、軍馬の改良手段として東京の九段の招魂社などで盛んに競馬を開催している。「はからずも花の九段の月に遭う」(あまき)。当時の騎手はほとんどが陸軍の将校か馬術家であり、日露戦争で旅順攻略の第三軍司令官となった乃木希典や騎兵学校を設立した秋山好古が参加した記録がある。

 日清・日露戦争によって軍馬の劣勢を実感したため、軍部は軍馬改良を急務にする。外国人は、当時、日本の馬は「猛獣」と酷評している。一九〇六年に、これまで馬匹改良の手段として競馬の必要性を熱心に説いていた加納久宣子爵と陸軍から出向してきた安田伊佐衛門騎兵中尉によって、「日本レースクラブ」を手本とする「東京競馬会」が設立され、新設の東京の池上競馬場で馬券を発売して競馬が開催される。これは法律上問題があったが、優秀な軍馬確保のため、桂太郎内閣は馬券の発売を黙認している。同年十一月二四日からの四日間開催の池上競馬は活況を呈している。競馬はあくまで娯楽ではなく、軍馬の展覧会であり、競馬馬には速さよりも頑丈さが要求されている。競馬が娯楽になり、白馬が競馬場で見られるようになるには第二次世界大戦の終結を待たなければならない。しかも、日本競馬が外国産馬にも開放されるのは、さらに後のことである。

 日本での最初の近代競馬は一八六二年(文久二年)五月一日と二日、横浜の在留外国人によって横浜新田堤塘(現在の横浜市中区山下町の加賀町警察署から元町までの地区)で行われている。在留外国人は「競馬コロフ(倶楽部)」を設立して治外法権的な競馬を続け、薩摩藩士がイギリス人の行列に切りつけた生麦事件を契機として開催場所は根岸(現在の根岸競馬記念公苑)へ移転する。その後、競馬の組織は分裂・解散し、一八八〇年(明治一三年)に「日本レースクラブ」が結成される。なお、最初の日本人の馬主は西郷隆盛の弟の従道である。

 競馬自体の起源は、一三七七年、後にリチャード二世として即位するプリンス・オブ・ウェールズとアランデル伯爵が自分の馬に騎乗してニューマーケット近くで競走したのが最初と伝えられている。マッチレースから次第に参加者が増え、王侯貴族のスポーツとして盛んになり、当時者同士の賭けが伴っている。やがてブックメーカーが登場し、一般からも参加者が加わり、ギャンブル色を濃くして栄えている。馬も改良され、バイアリー・ターク、ダーレー・アラビアン、ゴドルフィン・バルブの三頭を三大根幹種牡馬として、サラブレッドが生産される。世界中のサラブレッドの血統の父系をたどれば、すべてがこの三頭に到着する。

 札幌、函館、新潟、松戸、目黒、板橋、川崎、藤枝、鳴尾、京都、小倉、宮崎の各地に馬主を主体とする競馬倶楽部が設立され、「倶楽部時代」が始まる。しかし、一九〇八年十月一日、新刑法の施行をきっかけに、監督官庁の馬政局は「馬券禁止」を各倶楽部に通達する。熱狂に伴い、借金した挙げ句の夜逃げや一家心中、窃盗、強盗などが頻発し、賭博としての競馬を社会悪とする非難の声があがっていたのである。『東京朝日新聞』は、池上競馬の初日に「此の日、無類の好天気にてさながら春の如く、池上山上、松緑の間ちらほら紅葉を点綴して光景いわん方なく、競馬場はその山麓(さんろく)の平野にあり、中間の森などことごとく除き去られて眺望濶如(かつじょ)たり、西の方、富士の白雪は朝日に輝き出でて馬上の勇士を励ますものの如し」と好意的な記事を掲載したが、数日後の社説では、「現当局者の眼中には、人民は到底馬以上に映じおらざる如くに見ゆ……吾人は今にして当局が翻然として改むる所あり、競馬場における賭博の公開を厳禁せんことを望む」と馬券禁止を激しく訴えている。馬券禁止は、結局、十五年間に及ぶことになる。

 この間、政府からの補助金によって競馬は細々と続けられる。各競馬場は馬券に代わる商品券を出すなどさまざまなアイデアを実施したが、盛りあがることはなく、騎手たちは草競馬に出稼ぎに行くのにとどまらず、転職するものさえ現われ始める。「大空を渡る鳥あり草競馬」(あまき)。そんな状況下でも、一九〇九年、ロシアのウラジオストクから招待され、総勢二十数名、競走馬約五十馬による初の海外遠征が実現され、安田伊佐衛門が馬主のスイテンが五戦全勝するなど好成績をマークしている。

 軍馬の重要性がなくなりつつあることが認識されている一九二三年(大正一二年)三月、最初の競馬法が制定され、馬券が公認となる。法律によって馬券が発売されたことから、世間は「公認競馬」と呼んでいる。競馬はようやく合法的に認知される。

 

これから始まる大レース

ひしめきあっていななくは

天下のサラブレッド四才馬

今日はダービーめでたいな

 

走れ走れコウタロー

本命穴馬かきわけて

走れ走れコウタロー

追いつき追いこせ引っこぬけ

 

スタートダッシュで出遅れる

どこまでいってもはなされる

ここでおまえが負けたなら

おいらの生活ままならぬ

 

エーこのたび、公営ギャンブルをどのように廃止するかという問題につきまして、慎重に検討を重ねてまいりました結果、本日の第四レース、本命はホタルノヒカリ、穴馬はあっと驚くダイサンゲンという結論に達したのであります。

 

各馬ゲートインからいっせいにスタート、第二コーナーをまわったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ、さらに各馬一団となって、タメゴロー、ヒカルゲンジ、リンシャンカイホー、メンタンピンドライチ、コイコイ、ソルティーシュガー、オッペケペ、コウタローとつづいております。さて今、第三コーナーをまわって第四コーナーにかかったところで先頭は予想どおりホタルノヒカリ、期待のコウタローは大きく遅れて第十位というところであります。さあ、最後の直線コースに入った。ああ、コウタローがでてきた。コウタロー速い。コウタロー速い。トップのホタルノヒカリが逃げきるか、コウタローかホタルノヒカリ、ホタルノヒカリかマドノユキ、あけてぞけさは別れゆく。

 

ところが奇跡か神がかり

いならぶ名馬をごぼう抜き

いつしかトップにおどり出て

ついでに騎手まで振り落とす

 

走れ走れコウタロー

本命穴馬かきわけて

走れ走れコウタロー

追いつき追いこせ引っこぬけ

(ソルティ・シュガー『走れコウタロー』)

 

 馬は哺乳綱ウマ目(奇蹄目)ウマ科に分離され、家畜ウマと野生種の総称である。野生種は大きく三つに分類され、アフリカ産のシマウマのグループ、アジアのキャンやオナガーとアフリカの野生ロバからなるロバのグループ、モウコノウマ(プシバルスキーウマ)を含むグループである。野生種の馬の多くはすでに絶滅したが、モウコノウマは現存する唯一の野生種の馬であり、家畜ウマと交配して繁殖力のある子孫がつくられている。この他にも世界各地に野生ウマと呼ばれる馬がいるが、いずれも家畜ウマが野生化したものである。家畜ウマの学名はEquus caballus、モウコノウマは:Equus ferus przewalskiiである。現代の馬の解剖学的に最も重要な特徴は、四肢にそれぞれ指が一本しかない点である。このため、馬は、サイやバクと共に奇蹄類に分類されている。人間の中指に相当する馬の指は巨大化し、指の前面と側面は角質の蹄で囲まれて保護され、蹄の上の両側には、第二指及び第四指の痕跡が残っている。犬歯と前臼歯の間にはかなり隙間があり、乗馬などで馬をコントロールする際に用いる金属製のはみは、ここにとりつける。どの歯も歯冠は長く、歯根は比較的短い。胃は一つで、繊維質の食べ物は、人間の虫垂に似た盲腸で微生物によって発酵させる。その盲腸は小腸と大腸の結合部に位置している。

 あまきは、一九〇六年、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業後、現在の大学院に相当する馬学研究科に入学し、翌年、論文『馬政学』を指導教官の今井吉平に提出、一九一〇年、成美堂から今井吉平の名前で出版されている。農商務省の海外研究生としてケンタッキー州のレキシントン大学名誉試験場エルマドルフ牧場に赴く。彼は、ケンタッキーで、「向日葵やネグロの街の軒低く」と詠んでいる。一九一〇年に帰国するまで、南米に二度、ヨーロッパに一度出張している。帰国の際、種馬八頭を輸入し、さらに、レキシントン競馬協会名誉会員に選ばれている。あまきは、晩年になるまで、食事では、ミルクかコーヒー、それにバターを塗ったパンを好んでいる。一九一二年から三二年まで、陸軍省馬政局農林省種馬育成所に技師として勤務し、その後、帝国馬匹協会など各種馬事団体に勤務する。一九四六年、馬事団体を辞職し、北上市に戻り、以降、農業に従事している。

 こうした経歴はあまきが歴史の転換期に直面していたことを告げている。と言うのも、もはや馬の軍事上の重要性がなくなりつつあるときに、あまきはその軍馬の育成にかかわっていたからである。一九三二年、ロサンゼルス・オリンピックにおいて、馬術競技の中の大賞典障害飛越個人で、ウラヌス号と共に金メダルに輝いた「バロン・ニシ」こと西竹一中尉は陸軍の戦車連隊の隊長として硫黄島で自決している。第二次世界大戦では、いかにすぐれた騎手であっても、騎兵として出る幕はもはやない。「富国強兵」をスローガンに掲げられた明治時代、近代的な軍馬育成は最重要な国策の一つであり、あまきはそれにキャリア官僚として携わっていたが、次第に、軍事行動における馬の必要性が消えていく中、相対的に、その部署の官僚の地位は低下していく。軍馬育成は時代遅れになっている。

 あまきが近代文学の主流である小説や詩ではなく、また日本において最も伝統的なジャンルの短歌でもなく、俳句を選んだのもそうした自分の立場が反映していないとは言えないだろう。

 あまきの句には次のように戦争を描いた作品もある。

 

 兵を待つ花下の中尉の馬あがく

 

 兵等嬉々天長節の落花浴び

 

 暁や爆音をきゝ鶯を

 

 稲架の疎開学校窓灯る

 

 あまきにとって、戦争は戦場での戦闘ではない。本土で経験するものでしかない。ただ、戦争も、馬を通して、あまきには感じられる。戦後になって、あまきが句集に『白馬』と命名したのは、非戦への思いがあったからにほかならない。

 馬は、歴史的に、重要な軍事的機動力であるが、二〇世紀ほど、馬の役割を変えた時代はない。弓や槍、刀が過去の遺物となったように、馬もまた戦場から姿を消す。騎兵の全盛時代は、おそらく十三世紀だろう。チンギス・ハーンはすぐれた騎兵を操り、史上最大の帝国の基礎を築き上げている。けれども、第一次世界大戦以降、機動力は馬から自動車や戦車、飛行機へと変わる。「飛行機の沈める牧の茂りかな」(あまき)。騎兵が戦闘の中心となっていたのはボーア戦争(一八九九一九〇二)が最後となる。この戦争は、歴史上、本格的にゲリラ戦が導入された戦争であり、馬はゲリラの登場と共に消えていく。イギリスは、この経験を踏まえて、第一次世界大戦時、アラブ人のゲリラ部隊を組織し、トルコ軍を苦しめたものの、戦後、今度は彼らのゲリラ攻撃によってパレスチナの支配を不安定にさせられる。各国の陸軍は乗馬騎兵を戦車や装甲車を主力にした装甲騎兵へと再編成する。初めて実践に導入された機関銃により、第一次世界大戦開戦後わずか三ヶ月で百五十万人の戦死者が出ている。戦争は英雄物語ではなくなる。機関銃を防ぐために掘られた塹壕と鉄条網だらけの戦場において、騎兵は威力を発揮できず、その代わりに、戦車が投入される。塹壕に長時間閉じこめられるため、兵士の間で腕時計が普及し、現在に至るまで続く時計の個人への支配が始まっている。あまきは、この大戦の激戦地の一つであるヴェルダンの戦場跡を訪れたとき、「国境を越えて夏野のなだらかに」と詠んでいる。第二次世界大戦では、ポーランド軍の騎兵隊はドイツ軍の戦車と戦闘爆撃機による電撃戦の前に全滅し、勇敢ではあったものの、ポーランド軍は、事実上、一ヶ月足らずで壊滅している。白馬だけでなく、馬は、二〇世紀になって、軍事から解放される。

 さらに、馬を時代遅れに追いやった戦車も時代の流れにさらされている。装甲騎兵も空飛ぶ騎兵に脅かされることになる。熱帯雨林を戦場とするベトナム戦争になると、アメリカ軍はガスタービン・エンジンを備え、多目的に使用できるヘリコプターのヒューイを持つ空挺部隊を参加させ、騎兵が空を飛ぶ時代になっている。戦車のような装甲騎兵はヒューイの格好の餌食である。フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』の中で、ヒューイの編隊が海沿いの村を空襲するとき、隊長ビル・キルゴア中佐はリヒャルト・ワーグナーの『ワルキューレの騎行』をBGMにしている。”Put on psch-war operations, make it loud. Shall we dance?”現在のアメリカ軍が所有するアッパチやコマンチといった戦闘ヘリは二三mm弾にも耐え、コンピューターで制御され、全天候に対応でき、夜間に任務を遂行できる。特に、コマンチは時速一三〇kmで後進飛行できるだけでなく、時速一四〇kmで横に飛ぶことができる。こうした戦闘ヘリにより、戦車は、「砂漠のキツネ」と呼ばれたエルヴィン・ロンメル将軍に率いられて北アフリカの広大な砂漠を疾走する姿は過去のものとなり、徐々に、主に都市制圧を目的として活用されるように変更されている。馬が味わった時代に遅れていく感覚を戦車もまた経験している。”This, too, shall pass”.

 

When the still sea conspires an armor

And her sullen and aborted

Currents breed tiny monsters

True sailing is dead

Awkward instant

And the first animal is jettisoned

Legs furiously pumping

Their stiff green gallop

And heads bob up

Poise

Delicate

Pause

Consent

In mute nostril agony

Carefully refined

And sealed over

(The Doors “Horse Latitudes”)

 

 江戸時代まで、日本の軍隊の主力も騎兵である。源平の戦いも、関が原の戦いも、馬に乗った武士が主役である。幕末から、軍備の近代化と共に、西洋式馬術が導入され、明治以降は、フランスやドイツから教官を招き、軍事用の馬術が奨励される。特に日露戦争の開戦前には、ロシアのコサック騎兵に対抗するため、騎兵将校をヨーロッパに派遣し、騎兵の養成と軍馬の能力向上が計られ、その結果、帝国陸軍の騎兵旅団がロシア軍のコサック部隊と戦闘している。しかし、帝国陸軍も、諸外国同様、装甲騎兵部隊を主力に据えていく。現代の日本では、皇室警察が唯一の騎兵部隊であり、陸上自衛隊には、競技用の馬を除けば、騎兵はまったく存在しない。あまきは「曲家の厩出て来る飾馬」や「七等の春駒をひく馬子巧み」と詠んでいるが、東京の街中でトラックやオートバイを目にしても、馬を見かけることはほとんどない。

 世界的にも、馬は依然として家畜ではあるものの、もう主要な輸送手段ではない。馬には速さと頑丈さという二つの印象がある。競走馬は精巧さを感じさせるが、馬車馬や農耕馬は頑丈である。一九二三年から三九年までヤンキースで活躍したルー・ゲーリッグは、そのタフネスさから、「アイアン・ホース」と呼ばれている。中央アジアのステップでは、馬や牛、ヤギ、ヒツジ、ラクダ、ヤク、トナカイなどの混合牧畜が行われているが、中心は馬である。放牧地が共有である場合を牧畜と呼び、放牧地が私的所有によって成立しているものを畜産と定義される。牧畜しか行っていない牧畜民は寒冷地に住むイヌイットなど極めて少なく、たいていは傍らで農耕も営んでいる。ゲルの周囲をモンゴルの遊牧民は馬に乗り、駆け回っているけれども、かつて馬が通ったシルクロードを大量の物資を積んでトラックが走っている。「ひたすらに東風にさからひ競べ馬」(あまき)

 とは言うものの、馬は現代において欠かせない技術を生み出すことに貢献している。一八七七年、カリフォルニア州知事リーランド・スタンフォードは、友人と「馬が全速力(ギャロップ)で走るとき、四本の脚が同時に地面から離れることがあるか、それともないか」をめぐって賭けをする。ほんのわずかながら四本の脚が地面から離れるに賭けた知事は、それを証明するために、当時の金額で四万ドルを投じて、写真家のエドワード・マイブリッジに依頼する。彼は、競馬場のコースに沿って十二台のカメラを設置し、それぞれのカメラの前にコースを横切るように十二本の糸を張り、走っていく馬がその糸を切る度に、シャッターを順治作動させることを考案する。これにより、マイブリッジは馬が全速力で走るときの姿を写真に収めることに成功し、知事は、友人との賭けに勝っている。この成果は連続写真として新聞で大々的に報じられ、後の映画の発明につながっていく。

 二〇世紀において、馬は現実の風景から、事実上、消え去り、特殊な世界に押しこまれている。馬は競馬場や牧場、放牧地、映画、テレビで見かけるものである。あまきはそういう馬を俳句に詠んでいる。『白馬』というタイトルにもかかわらず、白馬の句は「秋耕や四頭位の白き馬」と「秋高く歩む白馬や鱗雲」のわずか二つしかない。けれども、馬をめぐる句は全体の二割ほどに及び、馬の辞典を思わせるほど豊富な語彙を使って、表現している。種馬から病馬、骨折馬、競馬、馬券、草競馬、牧場の馬、荷馬、母馬、仔馬、去勢馬など他にもさまざまな馬をめぐる字句が見られる。これは帰納法的な姿勢であり、あまきには馬のイデアは存在しない。既存の作品をモチーフにしてではなく、観察に基づいて句を詠んでいる。彼は、一九二八年に『ホトトギス』からデビューした通り、正岡子規が提唱した写生と昭和初期のホトトギス派が信奉した花鳥諷詠の系譜上にある。けれども、客観写生ではないし、花鳥諷詠からもいささか違う。高浜虚子は、自然の事物を忠実に写生することにより、それが引き起こした主観的な感動を間接的に表現する主客の合一を理想とし、山口誓子や水原秋桜子らは日本的美意識に基づいて自然を俳句に詠みこむ花鳥諷詠を主張している。あまきは極力固有名詞を避け、そこにある名もないものを名もないものとして描く。馬を詠むときでさえ、その馬には名前がない。有名=無名や主観=客観、日本的=非日本的という二項対立の図式の転倒を秘めたロマン主義的なアイロニーはまったくない。名もないということは事実にすぎない。あまきは「滝道やむらさきふかきとりかぶと」という句を詠んでいる。キンポウゲ科に分類される猛毒のトリカブトは樹木の葉が色づき始めるころ、舞楽の伶人が使用する冠の「鳥兜」に似た青紫色の花を咲かせる。「すべての物質は毒であり、毒でない物質はない。正しい量を使えば毒も薬になる」(バラケルスス)。先の二つの近代的な伝統を踏まえていながら、草の根派もしくは草の根主義とも呼ぶべき姿勢をとっている。ユーモラスな句はほとんどないものの、力んでいるわけでもなく、フラットな実直さが伝わってくる。”If the shoe fits, wear it”.

 あまきは、啄木のように、若くして文学活動を始めたわけではない。『ホトトギス』に入選したのは四三歳のときである。その年齢から俳句を詠むことは、クオリティ・オブ・ライフを向上させる一つの「代替医療(Alternative Medicine)」である。森毅は、『最近、ぼくは俳人も始めています』において、「年をとってから始めれば、どのみち老い先は短いし、周囲も期待しないから、うまくならなければならないというプレッシャーはほとんどない。上達すればそれでよし、上手くなれなかったとしても、またそれでよし。不得手なものにも平気で手を出せる。五十の手習い、六十の手習いはかくも気楽である」と言っている。あまきにとっても、俳句はそうだっただろうし、そのため、公職からリタイアして後、指導し始めたあまきの後進への接し方には「御隠居さんの自由」がある。それは「少し離れたところからちょっかいを出せる身軽さだ」(森毅『リタイアした身軽さがOBならではの身軽さだ』)

 あまきには次のような老いを含んだ句を詠んでいる。

 

 老二人去年今年なく俳小屋に

 

 蓼太の句裏に雪飛ぶ翁の碑

 

 老松の風大庫裡の風絵に

 

 杜鵑鳴く義経堂の老杉に

 

 孫乗せて仔馬祖父ひき厩前

 

 しかも、馬の句を詠むことは、彼にとって、さらなるセラピーである。帝国陸軍では、林良博の『検証アニマルセラピー』によると、傷病兵に対してホース・セラピーを勧めている。詳しい資料は廃棄されてしまっているため、現在ではわかっていないが、おそらくあまきは知っていただろう。あまきはホース・セラピーを文学を通じて感受していたのである。”Dance with the one that brung ya”.

 あまきの馬をめぐる句には、馬頭琴を奏でるような調べがあると次のような句が示している。

 

 牧清水飲みたる馬の歩きそむ

 

 骨折の馬吊しあり千菜宿

 

 かたまりて草喰む馬や月の牧

 

 召され征く馬に旗立て梅の門

 

 野を駆くる仔馬の肢の秋天に

 

 木曽川を義仲青毛馬を洗ひをり

 

 馬くろくちらばつゐる雪の牧

 

 兄妹の一馬に乗りて草紅葉

 

 左鞭つかひ勝馬さまたげぬ

 

 去勢馬の菰を着て通る牡丹雪

 

 あまきは、寺山修司のように、馬を見ているのではない。寺山修司にとって、馬は競走馬を意味し、一頭のサラブレッドを見ることは「一つの長編小説」を読むようなものだと言い、競馬に人生を投影するのではなく、競馬のほうが人生に対する比喩と考えている。その疾走に勝ち負けが待っているとしても、馬は馬鍬(まぐわ)をつけていないし、ライフルの銃口に向かって走っていくわけではない。一方、あまきには、馬は競馬馬に限らない。馬の句を詠むとき、あまきは、馬を育て、その先に待ち受けている運命を思いながら、接している。戦前、有事の際、農村から、若者のみならず、軍用に徴用されたため、馬も消えている。その姿勢は馬頭琴をつくったスーホを思い起こさせる。

 モンゴルに『スーホの白い馬』という民話がある。羊飼いの少年スーホはある日白い馬を手に入れ、大事に育てる。スーホは有力者の開いた競馬に出て、一等になるが、欲にかられた有力者に白い馬を奪われてしまう。けれども、白い馬は有力者の言いなりにならず、その上、スーホの元に逃げ出そうとした白い馬に弓矢を兵に放たせる。スーホのゲルに到達したものの、多くの弓矢に撃たれた白い馬はスーホの腕の中で息絶えてしまう。嘆き、悲しむスーホの前に白馬の魂が出現し、「スーホ、元気を出して。私の尾や筋を使って楽器をつくって下さい。そうすればスーホが歌を歌う時は、私も一緒に歌えますし、スーホが休む時は、あなたの側にいられます」と話かけて、消える。スーホは、その言葉に従い白馬の体から楽器をつくり、それが馬頭琴である。やがて冬が去り、モンゴルの草原に再び、光り輝く春がやってくる。伝統的な楽器である馬頭琴は少年スーホが育てた白馬の悲劇的な物語によって生まれたのだとモンゴル人は語っている。

 あまきの句には馬に限らず、動物を扱った句が多く、「待春のマダムは犬を野に放つ」や「われ乗れば万緑をゆく象車」などセラピーの色彩を帯びている。ただ、アニマル・セラピーに最も最適なのは、実は、馬である。と言うのも、「アニマルセラピーは医療、教育、スポーツという三つの領域をもつが、ホースセラピーはそのすべてを含んでいるからだ」(林良博『検証アニマルセラピー』)。一九五二年、ヘルシンキ・オリンピックにおいて、デンマークのリズ・ハーテルが馬術で銀メダルを獲得しているが、彼女は小児麻痺をホース・セラピーによって克服した一人である。「馬を追ふ娘十六花芒」(あまき)。

 あまきは一人で俳句をつくるのではなく、草の根の句会を開催している。句会はサロンであり、その出会いは決定論的非周期性がある。必然的ではないけれども、まったくの偶然でもない。草の根の草は雑草であり、自発的・ゲリラ的であって、その広がりは身分や階級、職業を超える。それは「個人性に大きく依存するプライベートなネットワーク」の「ええかげんネットワーク」(森毅『ええかげんネットワーク』)である。Jリーグが成功し、インターネットの発達により、むしろ、「ええかげんネットワーク」は定着している。あまきは句集の各章に土地の名前をつけている。句集は「日向と欧州(昭和三年秋──七年冬)」・「西荻窪と甲府(昭和七年春──十四年秋)」・「荻窪(昭和十四年秋──二十一年冬)」・「北上(昭和二十一年冬──二十八年冬)」の四部構成である。宮崎県日向と山梨県の甲府は赴任地であり、荻窪は、当時、あまきの自宅があった場所である。彼は荻窪の天沼に居を構えていたが、その地域には太宰治も下宿していたこともあり、最近では、佐藤清文も住んでいる。「雛の間に旅の衣を解れよと」と詠みながら、あまきは土地の間を遊牧民のように移動している。『白馬』には、日本だけでなく、アメリカやヨーロッパの各地で詠んだ句も多い。あまきが詠んだ句以上に、携わったネットワークが重要である。その点において、彼のような俳人を考える意義は小さくなく、むしろ、現代の問題である。「普通、人と人との間は言葉を通じて絆を結ぶと言うが、どちらかというと、言葉は絆というよりも隙間を埋めるキノコの菌糸に似ている。人と人との間には隙間があるから、その隙間に言葉の菌糸が広がり、それでつきあいが生まれるのではないか」(森毅『おしゃべり社交術』)

 草の根の自律的活動は、最近、期待されているが、その代表例がグラミン銀行である。それは、貧しい人たちだけに融資する銀行として、一九八三年、ムハマド・コヌスによりバングラデシュで発足している。ベンガル語で「農村」を意味する「グラミン」の名の通り、発足以来二十年間に渡り、女性を中心に無担保で少額融資を行い、貧しい農村が貧困から抜け出せるよう支援している。バングラデシュ国内の三万以上の農村で活動が行われ、利用者の九割以上を女性が占めている。融資を受けるには、五人でグループをつくって銀行のメンバーになり、研修を通して、自分の名前のサインの仕方や生活改善、起業に関する知識を得て、融資を受けられる。五人のうち資金を最も必要とする二人が最初に融資を受け、翌週から毎週定期的に集会を開き、その場で、行員に返済していき、残りの三人も順次貸し付けを受けられる。融資された人々は、少額の資金で、家畜の飼育や農作物の栽培、工芸品制作などで安定した収入を得て、返済率は九割以上に達している。この試みは、貧困層に小規模融資を提供するマイクロクレジットの先駆けとして注目を集め、開発援助協力の新たな方法として同様のプロジェクトが途上国にとどまらず、世界五十カ国以上で実践され、成果を上げている。グラミン銀行の成果にならって、一九九七年にはアメリカで一三七カ国が集うマイクロクレジット・サミットが開催され、その後、アジア、アフリカ、中南米の途上国を始め先進諸国でも、貧困の撲滅や雇用の創出などのためにマイクロクレジットが広がっている。また、グラミン銀行は、九〇年代初めから、預金や貸し付けに加えて、織物生産や農業、漁業といった事業もスタートし、さらに携帯電話やインターネットを利用した通信サービス、医療・保健サービスも進行中である。しかも、このプロジェクトは慈善事業ではなく、サービスをあくまでも有料で提供し、ビジネスとして成り立たせることで、受益者の自律に向かわせている。グラミン銀行の方針は、途上国の生産者を先進国の消費者が対等な立場で支援しようというフェアトレードのアプローチにも重なる。グラミン銀行の活動はたんなる地域経済ではなく、地域文化として考えるべきだろう。

 あまきにとって、句会はグラミン銀行であり、俳句はマイクロ・クレジットである。近代以降、国民国家の枠組みは政治的領域にとどまらず、経済や文化にも及び、地域の独自性・主体性は抑圧されている。この地域は国民国家内部における狭い区分、あるいは複数の国家を横断する範囲の二つの場合がある。いずれにしても、国民国家の均質化がもたらす諸問題に対するオルタナティブである。国民国家が領域と境界を明確に設定しようとしたが、ローカル・エリア・ネットワークがインターネットと接続されて効力を発揮するように、そうしたオルタナティブは住む自由と移動する自由が認められた「ええかげんネットワーク」によって可能になる。あまきはそれを実践している。

 あまきは、一九四六年以降、馬の句よりも農業に従事した句が増えていく。けれども、それを素朴な大地への回帰と考えるべきではない。あまきは「雪掘って笹食うべをり牧の馬」、さらに「採氷の雪につまれてみどりなる」と詠んでいる。緑を育てるには土や水への視点が不可欠である。土や水は生産の場だけでなく、分解の場でもある。土や水の中には、動物の腸の中と同様、微生物が住んでいる。植物にとって、窒素は必須であるけれども、窒素は大気中に最も含有率が高い気体であるが、窒素分子は三重結合をしているため、植物には直接取り入れることができない。微生物が窒素固定を行った後、植物はそれをアンモニアとして体内に取りこめる。土や水は異なったものたちの共生の場である。

 植物全体にあって、雑草は原野には生えない。雑草という概念自体、原野には、存在しない。雑草は「人間の論理と自然の論理とが、適度になれあう場」にしか生育しない。草の根はそうした異なった論理が「適度になれあう場」にしか生まれない。雑草の文化には、そのため、退廃がつきまとう。こうした退廃こそが、ナチスが「退廃文化」を斥け、ユダヤ人を排除しようとしたように、共生である。「人間にできることは、自分の世界のなかに、その自然の世界をとりこんでいくことだけだろう」(森毅『せっかくの雑草を結局盆栽にしちゃうんだ』)。俳句の論理はこの「自分の世界のなかに、その自然の世界をとりこんでいくこと」であるが、草の根の俳句は借景ではない。せっかくの雑草を「盆栽」にしてはいけない。草の根のしたたかさが盆栽にされることで失われてしまう。「人間が育っていくには、もう少しは、自然の論理に目をくばらなければなるまい。目的や計画ばかりでなく、草や木の茂りあうバランスが基礎になる。すべてがスギになるのではなく、さまざまな雑りあう姿の、その一本ごとに目をとどめ、そして道のはたの花や虫を楽しんだほうがよい。それは美妙なことだけに、たえず気を配らねばならないことだが、日曜日に裏山をぶらつく気分の程度でよいのだ。一途に進むよりも複雑だけれど、人生という世界だって、そのほうが楽しいと思うのだ」(『せっかくの雑草を結局盆栽にしちゃうんだ』)

 あまきは「盆栽」ではなく、雑草の俳人である。彼は俳句をつくるのを「日曜日に裏山をぶらつく気分の程度」で行っている。おそらく、現代社会において、最も必要とされるのは「一途に進む」のではなく、そういう「楽しさ」を感じられることだろう。草の根には眉間に寄せられたしわやこめかみに立てられた青筋ではなく、「日曜日に裏山をぶらつく気分」のほうがふさわしい。文学史に名を残す俳人とは違い、草の根として生きた及川あまきという俳人を考えるとき、「さまざまな雑りあう姿の、その一本ごとに目をとどめ、そして道のはたの花や虫」を楽しむことの大切さが思い起こされる。「何ゆえにわれわれは自然に対して不平を言うのか。自然は好意をもって振舞ってくれている。人生は使い方を知れば長い」(セネカ『人生の短さについて』)

 

On the first part of the journey

I was looking at all the life

There were plants and birds and rocks and things

There was sand and hills and rings

The first thing I met was a fly with a buzz

And a sky with no clouds

The heat was hot and the ground was dry

But the air was full of sound

 

I been through the desert on a horse with no name

It felt good to be out of the rain

In the desert your can remember your name

Cause there ain't no one for to give you no pain

(la la la...)

 

After two days in the desert sun

My skin began to turn red

After three days in the desert fun

I was looking at a riverbed

And the story it told of a river that flowed

Made me sad to think it was dead

 

You see...

 

After nine days I let the horse run free

Cause the desert had turned to sea

There were plants and birds and rocks and things

There was sand and hills and rings

The ocean is a desert with its life underground

And a perfect disguise above

Under the cities lies a heart made of ground

But the humans will give no love

 

You see, ...

(AmericaA Horse With No Name”)

〈了〉

 

 

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